kimamaにいってみよう

リスクジャンキーな私のゆるやかな日常

念願叶って行った、憧れのマチュピチュの残念なお話

私はかつて、ピースボートに乗って、地球一周の旅に行ったことがある。

あの、トイレとかお店に貼ってある、地球一周のポスターのあれだ。

 

その目的のひとつが、

マチュピチュに行く、死ぬまでに必ず。」

という長年の強い思いを叶えることであった。

 

それというのも、当時あいのりにハマっていた私は、

そこでマチュピチュに行って、

なんか遺跡の空洞を通して会話をしちゃったりなんかしちゃったりしていちゃこいているメンバーたちを見て、

こんなとこがあるんだ!行ってみたい!となったのだった。

ほんとに純粋に。

まあラピュタを好きだった、というのもある。

 

ピースボートは、ポスターを貼った分だけ旅費が割引になる制度があるので、

それを利用して、本当ならタダで行くつもりだった。

のだが、思いのほかポスター貼りの現実は厳しく、

泣く思いをしながらも、自分を奮い立たせて、

結局少し親の力も借りつつ、ほぼ半額で行ったのだった。

 

その念願叶ってのマチュピチュ行きの船旅チケット。

初めての船旅にドキドキしながら

新しい仲間たちに囲まれ、船上の生活を楽しんでいたのも束の間。

実際、ペルーに着いてみて、

これぞペルー、という色とりどりのお土産たちに目を奪われながら、

窓が屋根部分まであるマチュピチュ行き専用の電車に乗り、

すごい角度の、いろは坂もびっくりのくねくね坂を、

バスがどんどこ行くのに感心しながら、

あの、マチュピチュといえばの、

誰もが想像する、

あの角度からのマチュピチュを望んだとき。

あの写真に収めるのにばっちりの場所に立った時。

 

・・・あれ?

こんなもんか?

 

というのが正直の感想だった。

まあ、足を怪我をした友人の介添えをしながらだったから、

あまりマチュピチュを実感しながらそこに立ったわけではなかった、

というのもあったのだと思うが。

想像していた、

鳥肌立つような感動は、

正直得られなかったのだった。

 

拍子抜けもいいとこだ。

 

まあ、中に足を踏み入れて見ればまた違うかも、と思い、

入口の門の石とかにも足を止め、

なにか心に引っ掛かりそうなものを見つけようと

まじまじ色んなところを眺めてみるも、

あまり実感が湧かない。

ふむ、なるほどー、ここがあのあいのりでやっていたやつかな?

とか、

ここちょっとくぼんでるから体を収めて写真をとってもらったりしてー

とかやってたら、

もうほぼほぼ観光以外の何物でもなくなってしまい、

自分の中で、とんだ笑い者、というかなんというか。。。

とめどない「何をやっているんだろう私」感が押し寄せ。。。

 

私の中で、マチュピチュは、

因縁の残るものになってしまったのだった。

 

あれほど念願だったマチュピチュだったのに、、

もっと心行くまで、

マチュピチュを体に感じたりして、

堪能したかった。

 

ツアーなので時間も限られているのもあり、

すたこらさっさと、時間を気にしながら

とりあえず見るだけ見て帰ってきた、という感じだった。

 

しかし、そのツアーは、ナスカの地上絵も行けちゃう、

一番人気のオプショナルツアーだった。

観光者向けの、ブルジョワ気分を味わえる、いいホテルに泊まり、

気を取り直しての、ナスカの地上絵。

小さいセスナ機を、地上絵を見るために左右に傾け、

これがなんちゃらで、これがなんちゃらで、、、とご丁寧に説明してくれている操縦士さんとその仲間たち。

慣れない飛行機に揺られ、

気持ち悪さに耐えきれず吐いてしまい、

もうろうとした意識の中でも全部ばっちり写真には収めているちゃっかり者の私。

 

ペルーはその船旅の中でも滞在期間が長く、3日間あったのだが、

すべてオプショナルツアーで埋まっていたので、

自由時間もほぼなく、お土産もろくに買えずじまい。。

 

そんなこんなで、私の憧れのマチュピチュツアーは、散々な結果に終わったのだった。

 

この先、もしいけることがあればリベンジをしたいという

密かな思いを持ってはいるが、

あそこまで自力でいくとなると大変なので、

気が乗ったらもしかしたら、、、という程度。

まあマチュピチュに対する思い自体が薄れているので、

なにかきっかけがない限りもう行くことはないかもしれない。。

 

私の中の、今でもマチュピチュの残像がたまにちらつくちょっとせつないお話。。

おしまい。ちゃんちゃん。

変化を望むなら、待ってみよう

本当の自分を生きようとすると、環境が変わる。

場所や、人間関係が変わる。

 

しょうがないことだ。

今までの自分とは違う生き方をしようというのだから、

今までと同じ人間関係ではいられないこともあるだろう。

 

一緒にいられる人とだけ、いればいい。

本当の自分についてきてくれる人とだけ、いればいい。

それがどんなに絆を感じていた人であろうと、

どんなにお世話になった人であろうと、

関係が続かない状況になっていくのは、仕方がないことなのだ。

 

そこに執着しては、先に進めない。

去る人がいれば、来る人がいる。

別れは出会いの始まりだ。

 

自分の道を生きると決めること。

そうすれば、私の中の本当の私は、

環境がどう変わろうと、喜びに満ちてくれるはずだ。

 

豊かさにフォーカスすること。

今の状況が変わらなくたって、

そうしていくことで、いい方向に変わっていくはずだ。

 

人間は、変わることを嫌がる生き物。

 

でも、そこにずっと変わらず居続けることなんて、できやしないんだ。

地球は動く。

太陽も動く。

 

状況が変わらない、って焦ってみたって、ほんとは動いてる。

宇宙単位で。

 

だったらその流れに身を任せてみる。

本当の自分を生きている満足感を想像して、にやにやしながら待つ。

 

そのうち、あちらさんからやってくるよ。

コンコン、呼びました~?ってな具合に。

 

楽しみにして待つとしよう。

それがいつかは分からないけど。

そう遠くはないと期待して。

 

不安な時こそ、本当の自分の声を聴こう

不安に負けるな。

不安は増殖する生き物だ。

 

なんだかちょっと、不安に押し殺されそうになっていた昨日の私。

ちょっとしたことなのに、それがすべてみたいな考えしかできなくなっていた。

今なら、そんなことない、大丈夫、と思えるけど、

とてつもない不安に襲われてるときって、

本当にそのことしか考えられなくて、

その不安を抱えたまま涙で心を慰めることしかできない。

少なくとも昨日の私はそうだった。

涙が慰めてくれるなら、まだマシだろうけど。 

 

でもその時、

 

「本当の豊かさっていうのは、

目先の不安なことに囚われず、

その時その時の自分の欲しいものや、

やりたいことを叶えてあげること」、

 

って教えてくれた人がいた。

大丈夫、

今の自分の心を満たしてあげることの方が大事だよ、って。

 

ありがたかった。

ああ、大丈夫なんだ、って思えた。

 

そして今日、ある曲が流れて来た。

 

「When You Believe」

 

マライアキャリーとホイットニーヒューストンのコラボ曲だった。

なにか聴き慣れた曲だなーと思ったけど、

調べたら、歌詞が、今の私にドンピシャだった。

(和訳はこちらを参考させていただきました。)

 

特にその中の、

 

 願ったからっていつも奇跡が起きる訳じゃない

 だから不安に屈してしまう

 苦しみで行き詰っているときは、行く道がわからない

 か細いけど、確かな声が、あなたにささやく

 「救いはすぐ近くにある」

 

っていう箇所(上記は大体の要約です、あしからず)。

ああ、そうだ、昨日の私は正にこれだった、と思った。

 

導かれたように届いたこの曲が、

さらにダメ押しで教えてくれた。

 

大丈夫、今のままでいい、そのままいきなさい、って。

 

私は大丈夫だ。

このままでいこう。

 

風に吹かれるまま、

流れに身を任せて。

心地よさの追求

自分の心地よさを追求することの重要性について

考えたことはありますか?

 

あなたが心地よさに酔いしれているとき、きっと周りの空気も癒しオーラに包まれているはず。

エネルギーって伝播するから、その心地よいエネルギーに影響されて、周りにいる人も、なんかいい感じになるはずなんだ。

なんか居心地のいいカフェとか、、

店主の雰囲気がいいと、ついつい長居しちゃったりしませんか?

 

私は、人の心地よさのお手伝いがしたい。

人が心地よくなるために、私は何ができるか。

まずは自分の心地よく感じるのはどんな時か。

そこにヒントがあると思う。

 

体をほぐす、

澄んだ鐘の音、

森や川などの自然を感じる、

風を感じる、

おいしい食べ物を味わう、

デトックス

楽しいおしゃべり、

水の中を漂う、

リズムに乗る、

好きな音楽を聴く、

適度な疲労感を感じながら寝る、

淹れたてのコーヒーの香り、

誰かと一緒に笑うこと、

カフェでゆったり過ごすことに酔いしれる時間、、

 

探ったら、まだまだ出てきそうだけど、、

とにかく、自分が心地よくなることを、提供する。

自分も相手も心地よくなることを、提供する場をつくる。

私がしたいのはそういうこと、なんだと思う。

 

心地良さを意識していこう。

死ぬまでに知りたい、たった1つのこと

誰もが、自分の生きて生まれた意味を形にしたい、と願う。

自分は何のために生まれてきたのか?

今やっていることをするために生まれてきたのか?

このまま生きていって、本当に自分は・・死ねるのか?

やりきった、楽しかった、生まれてきて良かった、私が生きてきた意味はこれだった、と、微笑みながら。

 

私は、明日死んでも構わない、と常々思ってはいる。

死ぬときは死ぬのだ。それはしょうがない。

ただ、自分の生まれてきた意味は知りたい。

私がこの世になぜ生まれてきたのか。

何をしたくてこの地上に降りてきたのか。

 

せめて、そのために今、自分ができることをしなくては、と思う。

それができるのは、私だけだから。

そして、それがわかるのも、私だけだ。

 

そのために、今私ができること。

体が求めるものを、必死に感じること。

自分のための時間をもつこと。

もどかしいけど、今の私には、それしか方法はない。

 

生き切ろう。

自分を。

本当に自分がやりたいことを、実現させてみせようじゃないか。

 

 そしてその近道は、リラックスすること。

できるなら常に。

それが、きっといい波に乗るコツだ。

雨に何を思いますか?

雨は好き。

浄化される感じがする。

 

雨のしっとりとした空気感。

雨の日に、部屋の窓から外を眺めて、雨の空気を吸い込み、雨のエネルギーを感じる。

なんともいえず至福の時だ。

特に今みたいな、秋の空気を感じる雨は最高だ。

 

外に出る場合、一瞬濡れるのが嫌だな、と思うけど、

濡れたら乾かせばいい。

(と自分に言い聞かせる。)

 

今日は新月の空気と相まって、神秘的とさえ感じる。

色んなエネルギーを感じてみよう。

自分を好きになるとどうなるか?

あなたは、自分は好きですか?

 

私は、最近、ようやく好きになりかけているところです。

 

自分の人生を生きるには、自分を知ることが大事。

そう気づかされてから、自分と向き合おうとしてきました。

でもなかなかできなかった。

時間はあるのに、体が、心が、嫌がってた。

苦しかった。

向き合う、って、なんだか怖いんですよね。

虫が脱皮するときの苦しさ、みたいな。

実際苦しいのか知りませんけど。

 

それでも、たまに瞑想してみたり、

よくある、書き出し法で心の中を眺めて見たり、

日々の心の動きを視覚化して、ヒントを得てみようとしてみたり。

 

その一つ一つが積み重なってかどうかは知らないけど、

今は、なんとなく、こういう自分が好きだな、好きかもな~、

私ってすごいかもな~、なんて思えるようになってきました。

 

自分好きって伝染するみたいで。

私の近くにめっちゃ自分好きの人がいるので、

その影響もあるのかもしれないですけど。

 

そんな自分好きエネルギーが、どんどん伝播していけばいいなあ、と思います。

全員が自分好きになって、

全員がそれぞれ本当に好きな事していけば、

地球は平和になる。

まずは自分から。